近世前半…戦乱から統合へ(~17L.E)

11世紀初め、レゴランド半島北部にてチューハノイという小規模な都市が形成される。
当初は旧華王朝からの掠奪に対抗するため近隣の村々が合同してできたものだった。
そしてこれがのちのレゴランド地方を統一することになるとは誰一人として思わなかったのである。

チューハノイ一帯は大河も流れておらず農業生産性が壊滅的だった。
そのため住民たちは海に活路を求めるようになる。
始めは漁業だけだったが、次第に貿易まで発達していった。
南シア沿海諸国との貿易は国を徐々に繁栄へと持っていくことになったのである。
半島南部、パンコクから来たある商人は13世紀中頃、こう書き残している。

世界の全ての物品がチューハノイにはある。
金銀銅や香辛料だけではなく、西洋からの武器、極東からの豪華な奢侈品まで、何でも揃っている。
この町の中央市場は毎日が祭りのようであり、店頭を見るだけで数日過ごせるほどである。


はじめは弱体であった都市国家チューハノイも経済の力で有力になっていった。
当然その経済力を護る為に強力な常備軍と適宜傭兵を雇うことによって高い戦力を維持していた。
周辺の国々も私大にその庇護を求めてチューハノイに統合していくのである。
そして1321年、その名前を「北部レゴランド王国」に改名した。

南部諸国は農業により多数の人口を誇っていたが、幸か不幸か転機が訪れる。
14世紀初め、突如として原因不明の熱病が半島南部、それも大河の周辺で発生したのである。
チャイプラヤ河を根拠としていた南部国家はまたたくまに壊滅の様相を呈した。
発症者の手足に凹凸がでることから「ポッチ病」と名付けられた伝染病、現在も詳細は不明である。
とにかく、この恐怖の病により、一説には南部諸国の人口の20%が失われたといわれる。

南部諸国同士の終わりなき内乱に加え、疫病、更には無傷の北部レゴランド王国の南進に対し歯止めをかける国は皆無であった。
諸国は一致して新たな侵略者に対抗するより、その侵略者を利用して隣のライバルを葬ろうとする方を選んだ。
これが王国にとっての幸いであった。各個撃破といった形で徐々に南部を蚕食していくのである。

そして1467年。現在のレゴランド半島北部をほぼ統一する。国名もレゴランド王国に変更した。
内戦が終わったということは強力な軍隊が手元に残ったということである。当然矛先は海外に展開する。
その後百年で旧華王朝領土へと大幅に北進した。そして1587年、最大領土を達成する。
しかしその強さはあくまで経済力、動員力によるものであり、決して戦術が有効であったわけではない。指揮官が有能であったわけではない。
統一レゴランド王国はその欠点をいやというほど思い知ることになる。

その時と同じくして、ジャガルタを中心として現在のシロスクル運河あたりまで伸びている領邦体制の国があった。
旧華王朝の人々により結成されたこの国を、現在では後華王朝という。
後華王朝はゆるやかな連邦体制となっており、南一帯の封建国家が連合しているものである。
農業はじめ産業は乏しい地形のため発達して無く、貿易も厳しい立地であった。
その後華王朝が敢然と統一レゴランド王国に対して立ち向かった。

数回の小競り合いの後、1600年、最終解決を目指した王国軍は後華王朝に対し南進を開始した。
その数約10万。対して王朝軍は3万5000あたりであった。
王国軍はその勝利を確信していた。しかし王朝の将軍達は極めて有能であった。敵愾心も燃えていた。
会戦場所は中部の小都市、スプーケット近郊で行われた。

会戦の結果は東南イージア全体を震撼させた。
王国軍の損害、8万余り。対して王朝軍の被害はわずか3000であった。
騎兵による包囲、鉄砲隊による有効な攻撃など諸説あるが、完勝は疑いないことである。
王国は一部の領土を放棄しつつ休戦条約を結ぶしかできなかった。

この会戦以後、近世後半までレゴランド地方は平和な時を過ごすこととなる。
二か国は定期的に小競り合いするものの、民間では交流や貿易が続いた。
約250年にわたって海は穏やかに流れることになる。

近世前半
レゴランド王国膨脹の様子。





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